解からないところは引っかからないでザット読んでください。先に進まなくなる。
それから考えてもう一度読めば良いから。。。
思い付きは単純なものでした。某国営放送のテレビの子供向け科学番組で
司会の数学者が番組の最後になって、それまでの内容からは離れた、しかも
その場にいた小学生の子供に向かっては著しく不適当な問いを投げかけました
私は苦笑しましたが、本人が奇妙なほど真剣なのです。
あまりの表情から、居たたまれないような気持ちになって、
せめて私が考えたいような気持ちになりました。
それで考え始めました。
問いは『昔はあった反物質が、今はナゼかどこにも観測されない』と言うものでした。
あったとしたら、それはどんなものだったのだろう?
物質の反対?
物質て。。。質量がある。。。万有引力。
その反対ってナンだろう。。。
マイナスの質量がある。!?
斥力がある?。。。
なんだろ、ちょっと想像がつかないな。。。
もしそんな物が今あったらどんな風に振舞うのだろうか。
対消滅してみんな無くなって…
アレだろ物質が引力でドンドン反物質を距離の二乗に比例して引き寄せようと
するだろ、ドンドン引き寄せられるのを、反物質はそうはなるまいと頑張る
のだろうな。その二つの間がドンドン狭くなればなるほどその相反する二つは
もっと大きな力で頑張る。
じゃ、その二つが対消滅する瞬間、その寸前、どうなっているのだろうか
そう、例えばその距離が物凄く近づいた時。。。
どれくらい?。。。
物凄く。。。
無限にぐらいに近づいた時、
その時の、物質の振舞いは!?
物凄い力で引っ張る。。。無限大ぐらいの力。。。
反物質の方は?
そこから逃れ様として、頑張る。
物凄い力で。。。
その時の斥力はやっぱり無限大ぐらいに…
ここまで考えた時、あ!と思って飛び起きました。
ぶつからないのではないか。
二つのものはその斥力と引力がつりあい、対消滅しないのかも知れない。
だとしたら。。。
反物質と呼ばれるものは、今でもここにあるのではないのか。。。
それが空間とか場だとかを形成していて、
その構成が光りや引力を伝えているのとしたら。。。
だとすれば、私達が物質と呼んでいるものは、本当に引力、つまり質量を持った
存在の粒子だけの集まりでなく、今まで考えられていたより遥かに多数の
二種類の相反する粒子の集まりの物で、いくらかだけ、引力を持った粒子が
多くなった集まりの事を、物質と呼んでいたのではないか
斥力が過多になる状態は起こらないのか?
一時的に起こっても斥力を持つ粒子は、反発する力が勝つと場の中に
留まらないで安定した状態を求めて外へ向かって出て行こうとする。
それで斥力過多粒子は著しい不安定さから観測されないのだ。。。
ああ、そうか。。。
ああ、みんな判る
何故、距離の二乗なのか。
物理理論を背骨の様に貫いていた対称性の訳も
空間と言われる物と、私達が物質と呼んでいる物には
本質的な違いがないんだと。
量子力学が行き詰まっていると思える様な、物質は粒子でもあり波でもある
と言う様なご都合主義にしか聞こえない話でも、スムーズに理解できる。
一見相反する2つの理論がひとつの言葉で説明できる。
物質とは、いやすべての事象は振動する粒子である。
そう、粒子の振動であるのだ。
光りを含めて万象は2種類の均衡する粒子で構成された空間と呼ばれる場の
振動でしかないのである。光りに質量が観測されないのはプラスマイナス0の
質量の振動でしかなく、物質とはただ単に宇宙のしわでしかないのである。
それは丁度、私達が川と呼んでいる物の様で水を指しているのか、
溝に当たる部分の事か、あやふやな流れのさまその物の事でしかないのである。
物質とは確かな、粒子の団子状の集まりでなくその構成のパターンそのもので
それを構成する粒子は常に入れ替わっている。
それは丁度、テーブルクロスを振った時、手前から手前から走って行くしわ
の様に実体はなく、ただ空間の振動と運動の方向だけがある蜃気楼のような物
でしかないのである。
でわ物質はどのような物だろうか、そこまで不安定である物が何故固まりとして 認識できるぐらいに留まっているのだろうか物理の世界で言うところの弱い力 強い力とそれを留めようとする力はどうして現れているのであろうか。
本来なら空間のその特性から、安定状態である空間の状態に物質過多集合粒子は 戻ろうとするはずで留まっておく事が出来ないはずであるのに空間中で宇宙の鼓動 により頻繁に現れては消えて行く反物質過多集合粒子に打ち消されないまでも、 斥力粒子によって分解してしまわない理由があるはずである。
だからと言って、それは安定な物ではないはずで、空間の中で常に分解され、
その分解した物の残りの粒子パターンが分解するときに空間構成粒子の残りと
言う形で分解された物とまったく同じパターンが生まれ、直後また分解される
という事を繰り返していて、それそのものが波であることとそれを維持
するために必要不可欠な運動の方向と反射波を作り出している。
あまりにリアルにイメージできました。目の前に実際に見ている様に。
教師らしい人が私の仮説を教えているところです。
物質過多集合。。。と考えていた時、こんな名前教えられる方の身に
なったらたまらないだろうなぁと。その時の事でした。
その目の前に見える教師は、黒ブチの眼鏡をかけたネズミ色のスーツを着た
どうやら日本人です50歳ぐらいでしょうか、正面に向き直り、少し息を呑んで
眉をひそめ一気に言い放ちます。
「物質過多集合物質」
うわ~最悪…と思いました。
日本語は素晴らしいあらゆる言語を柔軟に取りこんですべての言語を混ぜて
しまえるほどの懐の深さを持っている、元々混じって出来た言葉であるから
だけどその要素のひとつである漢字はあらゆる意味を持つ言葉を即興で作る
ことが出来、読み手もそれをある程度理解できる。。。
でもこれは頂けない、眉をよせて言い放つさまは
「以上の事から物質は波でも粒子あるのです。」
と言いながらその実、本人も解っていないときの言いざまです。
その無表情には明らかに質問の拒絶の色が浮かんでいました。
どうだオレはとっても難しい話をしているんだゾと言わんばかりでした。
これではいけないもっと柔らかい名前にしなければ。。。
私はただの仮説、私が思い浮かんだおもちゃぐらいにしか思ってなかった
ので発見者が良く行使する特権として名前をつけることにしました。
物質過多集合物質のほうは。。。unun
ウン簡単で良い。
反物質過多集合物質のほうは。。。shishiだな
これならあの顔をさせないぞ
今思えばあの頃の私は信仰心のかけらもありません。
でもそのイメージのリアルさはわたしは人としての成長のなか完成にむけて
少し賢くなってきた脳細胞が、処理速度を速めリアルなイメージを描ける様に
なってきただけでモット早い人は幾らでもいるだろうし、イメージを描くだけ
であるなら環境でもっと伸ばしてる人もいるだろう程度に考えていました。
この頃から私には不思議な事が次々と身の回りに起こり始めました。
物質の重力、プラン定数は物体に質量という1括りのものとされているが
質量に密度があるのであれば、その定数における密度が次の項目として付加
される必要があることになる。
それは実験室レベルの話であれば誤差としてかたずけてしまえることの出来る
レベルではあるが、星間における計算となると必要な項目となるはずでそれを
例としてあげるならば、中性子星とそうでない普通の恒星であれば、その密度の
違いにより定数Gに対して補正する必要が生じる。
ケプラーの第3法則はその距離と質量を平面で捉えているが、仮に密度がある
のでなくても、空間として体積を持つものの空間を力が伝わるのだから、定数を
求める時その範囲は計算されてしかるべきである。
密度を計算しない時にはその距離により誤差があらわれるはずで、できるなら
それを元に誤差が体系的であるとすれば密度は推察されるはずである。
万物は数であり現在の閉じていて無限の宇宙はそのすべてを数で説明することが 出来るとするなら、
大きさを実数と仮に置くと中心を対称に写像として虚数が あることになる
これまでのはなしの流れの中で物質の波動性を強調してきたが物質が等しく
波であるとするとその進行速度は質量に対して実際の速度の限界の差があり
それがどこから来るのかと言うところが示されていない。
質量が大きいほど加速が困難になるがそれは総重量からのみつまり質量から
のみその影響を受けるのではない密度が高いほど影響を受ける。ずばり比重で
あるが原子番号で言うならば水素原子の方が他の原子より光速に近づけて
飛ばす事が出来るのである。水素原子とヘリウム原子では加速の困難さが同じ
でない水素原子と陽子でもそうでそれは総重量の問題を超えてそうである。
光速という限界に対して、比重の大きさが影響を与えるとは、unun、過多物質
の過多の割合の違いが移行速度を制限している、影響を及ぼすと言うのである。
波紋の広がりを考えてみた時、波は四方に広がりやがて消えてしまう。ちょうど
それは光や重力の様に距離に反比例する時がそれに当たる。
しかし物質の場合は粒子性を留めている。
我々の時間尺度の感覚から見ると長く留めている。
では物質の持つ粒子性はどこから来ているのであろうか。
それはununの性質の違いから来ているのであって、過多粒子群として比較的長く
保ちえるところから来ている。我々はそれを指して物質と言っていたのである。
磁気単極子はununにあたるとすればそれはあると言う事になるが電磁力の流れは 物質の表面とそれに繋がる内部構造の循環性にその力の源をもつので、磁気単極子 はないという表現がより正しい。
一方通行となる場合いも内部構造、構成パターンと共に表面の構成によって左右 されると言う事である。
それら電子の構造、構成は空間の一部を切り取った形であり、その為に空間を伝播 し伝播出来るのである。
それはununを多く含む切り取りであって空間のしわ、伝わる波であり質量を持つ 固まりとしても捉える事が出来ると同時に空間そのものとして、質量を持ちながら 空間として伝播するのである。
川とテーブルクロスのところあるいはもっと前でも あ!と思われた方もおいでだと思います.
私はそれまで宗教にほとんど関心がなかったので気がつかなかったのですが
自分に起こってる変化をほとんど気に留めていませんでした。
たまたま、ぐうぜんだ、ということで片付けられたからです。
はじめは突飛なオモシロイ仮説を思い付いたと思っていました。現代物理、
相対性理論と量子力学とを整合させる可能性に引かれて、それらに当てはめて
理論付けることを楽しんでいました。
その頃の事、次元、時空間、宇宙の持論にこの理論を当てはめて考えている時
ある特異点の存在に気がつきました。
しかしその点は人が通過してもそれと気付き難いであろう事がすぐ解りました。
連続しているからです。
気が付けないものであれば、考えるのも難しいだろうからせめて想像してみよう
としました。
皆目見当がつきません。
モット集中して、目を閉じてもみようと思い閉じたその時です
目の前に、つまりまぶたの裏に見えるはずの無い物が見えました。
驚いて目を開けました。
事態が飲みこめません。何だったのか解りません。
考えても解りません。
気のせいかもしれません。
ゆっくり目を閉じてみました。
未だ見えるのです。
今度はゆっくり閉じたのでそれが目を閉じて見える夢の感じの映像でなく、
まぶたの裏に貼り付いている様な感じで見えているのが観察できました。
即断しましたこれを考えるのは止めよう。
それからしばらくその理論に全く興味が無くなっていましたが
身近に起こった災害を言い当てていたりする様になりました
その事で気がつき始めました自分が何故そう出来たのか
何がそうさせていたのかということをです。
自分が無意識に受け取っていたメッセージ、意思の相手方の存在です。
その存在がおぼろげながら分かってくると言われている事が段々分かってくるように なります。当然宗教に興味が芽生え始めました。
そんな中、本屋に行った折積んである宗教の本に手が行きました。
買えという事のようです。単行本で薄い物でした。ホッとしながらも見てみると 仏教本の様です少し意外な感じがしましたが手にとって見ると般若経で私のいやがってる 気持ちを見透かした様に薄い、短いと何回も書いています。
観念しました
家で読んでいる内に、何故この本なのか思い知りました私の理論そのものなのです。
この理論はかなり突飛な発想であろうから他に誰かいるなんて思ってもいませんでした。
それが現代物理学から離れた時代でこれを考えた人がおられるのに驚かされましたが もっと驚く事に他にもいるとおっしゃるのです。
導かれるまま知らされたのは世界中の宗教がその源でたったひとつであること。
宗教だけでなく、哲学が物理が同じものでしかなかったのです。
私はすでにこの理論が真実であると確信しています。
般若経には呆れました。
先ず言葉がないのです。
その時代ではそれを表し説明するだけの言葉が程遠く足りません。
言葉が足りないだけならまだしも、ゼロの概念さえそろってないのです。
ゼロには2つの意味があります。無いと言うゼロと、プラスマイナスゼロです。
それを空です空。
漢訳も凄いですが。こんなとってつけたような言葉を引っ張り出してきて
無と対比させる形にしてこんなにコンパクトにまとめる。
理屈が解らなくてもなんとなくイメージできる。
絶句しました。
当時私は空間と言うものと物質つまりununを別に見ていました。
成り立つ割合が違うからです。世尊は一歩踏み込まれます。
色即是空、
物質がある、光りがあるといえる現象がある事そのものも空間であるということも それは交わりによって成り立つものでしかない。
空即是色、更にもう一歩行かれます。
たとえ空間としての存在で、形を成していなくともその本質に変りは無い。
それは結局程度の差でしかない。物質らも空そのものを元としてある様に見えている に過ぎないと言えるとまで言われるのです。
当時これほど卓越した表現方法も、その土地、その時、その人、その言語に沿って という制約の中なされたものです時代を経る従い、言語を写すに従い抽象的な意味の あいまいなものにしか聞こえなくなってしまうのです。
それに変質が加わりその位差が各宗教間の対立の元になるのです。